@武田信玄(家康を破るほどだった武田軍の強さの秘密とは)
ペンネーム:S敵と戦うためには情報収集が欠かせないことは、戦国時代から知られている。戦場の地形や敵方の内情を知らなくては勝利はおぼつかない。
この情報収集に特に熱心だったのが武田信玄だ。
信玄の言葉で「自国のことも他国のことも、いいことも悪いことも含めて、熱心に聞いておくべきだ」とある。
また信玄は、情報をいち早く伝えるシステムを構築した。
当時のもっとも早い伝達手段は早馬であったが、信玄は狼煙のネットワークを領内に張り巡らせた。甲斐の国は山国であり、馬では越えられない難所もあった。その一方で狼煙台に適する切り立った地形が多かった。
狼煙で伝えられる情報は限られているし、ほかの大名も狼煙を用いることがあったが、武田領内では狼煙の出し方によって何を伝えるかがあらかじめ細かく定められていたし、狼煙を上げる拠点が大変多かった。
例えば、上杉勢が越後と信濃の国境を越えてきたとすると、その情報は狼煙で次から次へと伝えられ数時間後には甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に届いたというから、当時としては驚異的な速さである。
しかし、いくら情報を得たところで、それを的確に処理できなければ、情報を活用したことにはならない。
信玄は、この点でも有能な武将だった。
1572(元亀3)年、信玄は2万5000の大軍を率いて浜松城にこもる徳川家康を攻めた。
「攻者三倍の法則」というものがある。城を攻撃する側は、籠城する側の三倍の人数を擁しないとなかなか攻め落とせないというものである。
信玄は、浜松城の将兵は8000という情報を掴んでいたので、2万5000ならば十分だろうと考えた。
ところが直前になって新しい情報がもたらされる。浜松城に、織田の援軍3000人が入ったというのだ、ここで、3000くらい増えても大差ないと考えることもできるだろう。
だが、信玄はあっさりと作戦を変更した。家康を城から誘い出し、野戦で雌雄を決して、家康を敗走させたのである。
それまで準備を進めてきた計画を、実行直前で捨てることは難しい。この三方ヶ原での大勝利は、信玄の思考の柔軟さを物語っている。